抜粋 スンヤタ

ヴェーダにとっても、仏教徒、シヴァ派、バラモン教徒にとっても、かき乱し、下等なマインド-マナスカナと結びつくヴァイラギャ-欲望の断念、自己コントロール-ダマの最高の方法は、いかなる手段を講じてもマインドを内面の目標に向け定め続けることであり、彼らは何があろうとマインドに支配させなかった。

この理由から、異なる状態になりたい、より責任感や連帯意識を持ち、義務を果たし、良識があり、温かく愛情深くなりたいという真の熱望が、今やかつてない程に肝要なのだ。そうすることで、より早く進化できるためだ。同じく、 表向きではなく実際に、私達が好きであるとか愛していると述べる人々に日々幸福−スカの瞬間を与えるよう努力することは、大いに好ましい。これより、私達が進化−向上−ダルマチャクラの上向きのレベルにあることが確認できる。

過去の時代、人間がまだその黄金の時代−サトヤユガや銀の時代−トレタユガにあった時、真実と叡智、愛−マイトリの光が地上において優勢であった時には、明らかに何も隠されていなかった。従って、行なわれること全ては目に見え、知覚でき、それゆえ魂や道徳的美徳を持っていたことに加えて、人生はより幸福−アナンダで、交流があり、忠実で誠実であった。というのも、何もごまかす、あるいは偽装することはできないことが知られていたからだ。

また、より遅れた者達に対して、その深い教えを分かち、伝えていた神々も存在した。シヴァの場合がそうであり、神でありながら苦行者の姿で現れることを望み、そうして多くの人々が進化するよう助けた。その後同じことをお釈迦様、仏陀も行い、やはり彼も人々と交わり、憐れみの道を教えた。

もしこれらの中傷の事実が、信仰や向上したいという意志に、つまりその揺るぎなさ−確信に対立するなら、私達は弱い上に、もろいことを示す兆候である。それゆえバラモン僧やチベット人、禅徒は常に極めて賢明にも、私達に不屈−耐性−アナートマン(無我)が存在するなら、疑いなくそれは偉大な魂−マハトマを有するからだと私達に示したのだ。

私達がより真剣で、成熟し、本当にバランスのある状態になった時、そして比較を止めた時、私達の真の進化−ダルマチャクラが始まるだろう。このように述べるのは、そのお陰で私達は、なりたい自分の単なる投影ではなく、本来の自分になる自由を得るからだ。

ブラフマ−ブラハマは、あらゆるSerの中のSerとして、唯一創造し、再び創造する計り知れない権限を持つ。だが、全てはシヴァというSerの火、そして発生のエネルギー、シャクティから始まる。これらは同じ源の二つの面であり、分かつことのできない不変の存在である。すなわちフォアット−プルシャ−Serは、シャクティあるいはクンダリニの創造する宇宙エネルギーと決して分けられないのである。

シヴァは慈悲深いという意味であり、この寛大な神という性質により、信者や世界のために身を犠牲にする。それゆえ、魂を癒す医師、生物の苦しみを憐れみ、救済する神だと常に言われたのだ。また、苦行の神でもあり、自分自身のコントロールを象徴している。同じくヨガ(結びつき)の創造者でもある。

ヨガの中にはカルマ・ヨガが存在し、これは努力と良い原則をもって、ネガティブな反応あるいは不払いのカルマの存在を回避する機能を有する。ジュニャーナ・ヨガは、知識とその他のヨガの実践を通して、至高なる現実を求めるものである。

同様に、誰もが有するヴァイタル体の中に、オーラあるいはヴィス・ヴィタエが存在すると知ることが欠かせない。もし生まれて以来ずっと私達の一部を形成しているこの放射あるいはエネルギーの包みが、プラーナーヤマと共にプラーナによって大いに豊かになるなら、内面作業に大きな前進を遂げることは疑いない。

既に極めて古い時代より、これらの神々に捧げる多くの祈祷や祈りの言葉、賛美歌、聖歌、マントラが述べられており、さらにはその多くがウパニシャッド、リグ・ヴェーダ、ヴァーユ・プラーナ、ラーマーヤナ、バガヴァッド・ギーター等の文献に保存されている。